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第8回 蜂蜜エッセイ応募作品

二階建てのホットケーキ

大坪光恵

 

 昭和二十八年、私が五歳の夏、弟が生まれた。その日は姉が小学校の修学旅行から帰って来る日だった。「お姉ちゃん、男の子だって」岡山駅の改札口をくぐる姉に告げた。さっき病院から知らせがあったばかりだ。父と三人、大学病院まで早足で向かった。早く新しい家族に会いたかった。
 弟はベッドの中で手を閉じたり開いたりしている。父にとっては待ちに待った男子の誕生、その喜びはひとしおだった。姉も私もガラス窓の向こうの小さな命を見つめた。当時、生家は豆菓子を作るのを生業としており、小豆の煮える匂いで目が覚めた。父と母、住み込みのお兄ちゃん、パートのおばちゃんたちが働いていた。
 ある日、幼稚園から帰ると玄関の脇で知らないおばちゃんが私の靴を洗っていた。産後に寝込む日が続く母の代わりに家事をしてくれた家政婦さんだ。優しくて、親切で、お料理もおいしいのだが寂しかった。父は、そんな私たちの気持ちを察していたのだろう。「今度の日曜日、お父ちゃんも店を休むから一緒においしいものを食べに行こうか」と言った。わくわくしながら行ったのは百貨店の七階にある食堂だった。そこはさまざまな匂いが漂っている。姉と私はホットケーキ、父は中華そばを注文した。レモンティーも頼んだ姉がおとなに見えた。
 ふわふわのホットケーキは直径十五センチほどで二枚重なっており、バターが少し溶けている。小さなピッチャーに入った蜂蜜をかけるとバターと一体となって光りかがやく。なれない手つきでナイフとフォークで切り分けて口に運んだ。絵本で見たミツバチのお話を思い出して「何のお花の香りかな」と、嗅いだがわからない。姉は少し残った蜂蜜をレモンティーに入れ、私はお皿に残った蜂蜜を人差し指でそっとなめた。そばをすすりながら父が笑っている。母へのおみやげに巻きずしを買った。
 お医者さんの訪問も減り、母は少しずつだが元気になった。とは言え、幼い弟もいるのであまえてはいけないと思っていた。ある日、母が「もうすぐ六歳の誕生日だね。プレゼントは何がいいかな」と言った。とっさに思いついたのはあのホットケーキ。「二階建てのホットケーキが食べたい」と叫んだ。様子の分からない母は父や姉に聞いたのだろう。百貨店のそれより大きなホットケーキを何枚も焼いた。少し焦げてはいたが蜂蜜のたっぷりかかったホットケーキ、家族みんなで食べる幸せの味だった。

 

(完)

 

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